夢の続きを見られる場所 ~千里セルシー広場~
大橋純子、石川秀美、岩崎宏美、河合奈保子、西村知美、松浦亜弥、後藤真希、倉木麻衣、氷川きよし、矢井田瞳、光GENJI、AKB48、きゃりーぱみゅぱみゅ、DAIGO。
これら芸能人にはある共通点があります。それは何でしょうか。
そうです。千里セルシー広場の舞台に立ったことがあるでした。
ここで成功すれば、全国で売れるとも言われていました。
ちなみに川崎麻世は、この千里セルシー広場で収録されていた『プリン&キャッシーのテレビ!テレビ!』(よみうりテレビ)の素人参加コーナーでグランドチャンピョンになり、ジャニー喜多川氏にスカウトされました。
どうです。夢があるでしょ。
えっ、なぜ千里セルシーかって?そうでした。
この夢のある千里セルシーが解体、建て替えられるというのを聞き、久しぶりにやってきたというわけです。
千里セルシーになじみのない人のために、千里セルシーについてごく簡単に解説しておきましょう。
千里セルシーは、大阪の千里ニュータウンに1972(昭和47)年に開業したショッピングセンターです。
開業の翌年に第一次石油ショックがありましたから、千里セルシーは高度経済成長の終わりの年に開業したと言っても過言ではありません。
終わりといっても高度経済成長の期間でしたから、ローマのコロッセオを模したと言われている6階建ての建物です。私には、コロッセオというよりも巨大な宇宙ステーションを思い起こさせる外観という“派手”なものでした。
多く、そう、できるだけ多くの幸せをみんなに! ~シンメトリーと2LDK~
ど派手な千里セルシーの横には、これまたどでかい千里阪急百貨店があります。
斜線が交互にクロスをしているという、なんとも見事な外観です。こちらはセルシーより2年先行する1970(昭和45)年に開業しています。
千里阪急百貨店は、千里ニュータウンの中心ともいえる千里中央(名前も中心ぽい)駅前にどーんとという感じであります。
千里ニュータウンに最初の入居が始まったのが1962(昭和37)年でした。その翌年の昭和38年には「夢のハワイへ行きましょう」の名調子で始まるアップダウンクイズ(毎日放送)がスタートしました。
また、昭和38年は、映画配給収入の1.2.3位を初めて洋画が独占した年でもあります。ちなみに、1位は「史上最大の作戦」の8.9億円、2位は「アラビアのロレンス」で5.9億円、3位は「大脱走」の5.2億円でした。
これがどうニュータウンに関係するかって?
千里ニュータウンに入居が始まったころ、アメリカへの憧れが強かったのです。そのアメリカへの憧れは住宅にも広がっていきました。それが、2DKです。
アメリカでは、寝る場所と食べる場所が別々になっているんですね。日本では、食べた場所で寝ていたわけですから。ちゃぶ台片づけて。
今では、ちゃぶだい片づけて寝るのは、旅館に泊まった時ぐらいかもしれませんね。
みんなの憧れるアメリカ的生活。それもできるだけ多くの人たちの夢をかなえてあげたい。それが集合住宅、つまりは団地ですね。
できるだけ多くの人にと考えると、効率よく部屋を作らねばなりません。そこには同じ間取りの同じ部屋を並べていくことになるでしょう。その結果、外観は見事なシンメトリー(左右対称)になったのではないかと思います。
千里ニュータウンを歩いてみると、シンメトリーな建物がたくさんあります。千里阪急百貨店も見事なシンメトリーです。
うちにも風呂が来た! ~君はほくさんバスオールを知っているか~
あこがれのアメリカンな生活のもう一つが内風呂でした。
アメリカには銭湯がありません。
実は、当時の団地には、内風呂が無く、住民は銭湯に通っていました。
今でこそ、日本の伝統として外国人などには脚光を浴びつつあるようですが、やはり銭湯通いは大変ですよね。
1970(昭和45)年前後に、とんでもないものが登場します。簡易内風呂です。
その名も「ほくさん バスオール」
雨の日や特に小さな子どもふたりを連れて銭湯に行くことは大変だったとほくさんバスオールが出始めた頃のタウン誌に書かれています。
ほくさんバスオールとは、何か。簡単に言えば、トイレがないユニットバスを想像してもらえば、ほぼ間違いないです。
ただ、給湯のために、湯沸かし器をバスオールの外側につけなければなりませんでした。その点は、ユニットバスとはちょっと違う点ですね。
ほくさんバスオールは、内風呂を可能にしました。他のお客さんに気兼ねすることなく入浴でき、子どもたちを次々とお風呂に入れて、お父さん、あるいはお母さんに託すことも可能だったでしょうね。
団地の街びらきにあたって、銭湯の誘致に大変苦労をされたそうですが、その銭湯が姿を消していきます。なんとも皮肉な話です。
同じであるということよりも、少しづつ他とは違う自分たちの生活が芽生え始めていったということなのかもしれません。そうなれば、シンメトリーな生活は息苦しくなるのでしょう。
団地には空き部屋が増え、ニュータウンは“オールドタウン”と揶揄されるようになりました。
そして、先の見えない、夢を見にくい時代へ。
高度経済成長の時代は、「努力をした分、いい暮らしができる」という夢のあった時代でした。今までとは違う“新しい暮らし”ができる場所。それがニュータウンであったと言えます。
新しい暮らしという夢を実現させた人々が、若者たちの夢を応援する。そんな街だったのでしょう。ひょっとしたら、夢見る若者に自分の夢を見ていた時を重ねてみているのかもしれません。
今やその千里セルシー広場も囲いで覆われてしまっています。
千里セルシー広場が解体されるいま、私たちの夢のかたちも急速に変わっていくのでしょう。また、夢の名残は急激に失われていきます。この速さは、次の時代を象徴するものだったのですね。
だって、令和、急げ。