フィルターとしての自分、セラピーとしての執筆

I am a writer

この10年、ライターという肩書きでさまざまな仕事をしてきたけれど、ここ数年で急に難易度が上がったと感じている。仕事内容の難易度ではなく、書くという行為と私の人生とのフィット具合を調整することに対する難易度だ。そのせいで仕事の文章以外が書けなくなってしまった(だから発信も停滞した)。

理由はいろいろ考えられるし、ひとつではない。たとえば飽きてきたという理由。書いても書いても社会の役に立っているのかわからない、単なる情報コンテンツを垂れ流していることへの自己嫌悪。それからたとえば、ミドルエイジクライシス的な理由。実際現在の私は更年期障害がアホみたいに辛く、生活はシッチャカメッチャカである(この話はまた別記事で!)。

それからたとえば「AIとの共存、もしくは闘いとの葛藤」みたいなものがジワジワと意識下に浸潤してきているのかもしれない。

しかしそれらはあくまで「一般的に想定される理由」の羅列であって、上記のひとつひとつを「困ったこと」と捉えて誰かに相談すると「ではどうしようか」というソリューションの話になってしまうので、相談がしにくい。

ソリューションなんて、一番困っている私が、一番考え尽くしている。それから、「これが効くよ」というレコメンドや「キャリアチェンジの時期じゃない?」などの成長や進歩が正義だという思考、そのようなものごと全般に疲れたからこそ、今の自分の状態があるともいえる。

じゃあどうすればいいか。
と書いて、今つくづくイヤになった。「どうすればいいか」って考えることに疲れたから困っているのに、思考を進めるときは「どうすればいいか」を助走板にするしかないの、まじで困りますね。困るのループです。

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話は少し変わるが、私はライターという仕事「社会におけるフィルターとしての機能」と捉えてやってきた。まだ言葉になっていない事象や概念や気持ちが、このフィルターを通ることによって言葉に変わる。一般的に「言語化」といわれるものだ。

そのフィルターの質は書き手により変わる。かなり属人的な要素で、だからこそ「映画について鋭いコラムを書けるのは、あのライター」「政治について独自目線で解説できるのは、あのライター」ということになる。普遍的な事実が、そのライターのフィルターを通過することにより独自の言葉として再生成されるのだ。

だからライターは、自分のフィルターの属人的価値を高めつつ、「種類」と「メンテナンスレベル」にも気を配る必要がある。

まずは種類について。

少ないフィルターで勝負をかけるのは「不動産ライター」や「政治ライター」など専門性を武器に特定ジャンルで戦うライターたちだ。対して「雑記系ライター」は軽めのフィルターを数多く持ち、依頼されたジャンルやトーンに合いそうなフォルターをリュックからホイホイと取り出し「それも書けまっせ、まいどおおきに!」と柔軟対応を行う。(私もどちらかというとこちらである)

次はメンテナンスレベルについて。

手持ちのフィルターをキレイに維持できるかどうかが、ライターの生命線だと思っている。目詰まりはないか。トレンドを把握し、時代に合ったメンテナンスができてるか。毎日毎日手入れを行うことで、手持ちのフィルターは手に馴染み、磨かれていく。使えなくなったものは入れ替えるべきだけど、経験を積んでいくと「自分にとっての唯一無二のフィルター」が仕上がっていく。

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冒頭で「書くという行為と人生とのフィット具合を調整することに対する難易度が上がった」と記載したが、恐らく今の私は、手持ちのフィルターの入れ替えの時期に来ているのだと思っている。割と「何でも書くよ~、言葉ってどんなシーンにも大切だからね!」というスタンスでフィルターの大盤振る舞いをしてきたけれど、同じスタイルはもう無理だと心身が悲鳴を上げている。

それから、悪意なく人のフォルターにゴミを詰めていく人や、フィルター維持の労力を軽んじる人もいる。そういう仕事にもエイヤエイヤと対応してきたけれど、そのエネルギーがかなり枯渇してしまったと感じている。

そして、そういのはこれまで充分にやってきたと思うから、今からやるべきはフィルターの質と量を見直し、人生後半に持ち運びやすいフィルター以外は捨てるという行動だ。残すフィルターの中には「私にしか扱えない」ものと、「誰かに引き継いで磨いてほしい」ものが出てくるはずで、それを見極めたり、リユース作業するとき、これまでの経験が生きてくると思う。

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このフィルターの取捨選択の作業は、何だか残忍なんだけれども、やっぱり書くことでしか進められない。だから当面はセルフセラピーのつもりで、思うこと、やってきたこと、やっていきたいことを書いていこうと思っている。

実際、「書く」という行為が生む変化は神懸かっている。これはライターに限らない。レコーディングダイエット、新月のアファメーション、感情を書き出す心理療法、目標を書いて壁に貼るなどの原始的な方法がいまだに世界から消えていないのは、そういうことだ。そして職業柄、「言霊」のようなものの力をまざまざと感じた経験も多くある。


というわけで、現在の私は書くということ自体に対する熱量が著しく低下しているけれど、たぶん書くことで復帰する。執筆はセラピー。

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幸い、私がこんなエアポケットに落ちたのと同時に生成AIが台頭してきた。これはもう奇跡だと思っている。二次情報やデータに基づく記事はAIが書けばよいので、めちゃくちゃホッとしている。人間には、人間の「執筆」が残ればいいし、私は自分のレーゾンデートルに「書くこと」を置いているので、たとえ私の完コピAIが出現したとしても、書くという行為自体は止めない。そう考えている。

このように1本書く間に「アレも書こう、コレも書こう」という別記事アイデアがわんさか出てきたので、セラピー効果は本当にある。自分は何のために存在しているのかに悩んでいる人はみな、何か書いてみたらよいですよ!

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