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神戸出身のライターが、ふたつの大きな地震を経験して考えること

こんにちは。ふみこです。

先月は大阪で地震、今月は西日本の広い範囲で未曽有の大水害が起こりました。命を落とされた方々のご冥福をお祈りし、1日も早い復旧を祈るばかりです。

私は人生でふたつの大きな地震を経験しています。ひとつめは、今から23年前に起こった阪神淡路大震災。ふたつめは、先だっての大阪で起こった地震。23年前は小学5年生で、今回は、35歳の大人。

そんな対照的な震災経験、そして感じたことをこちらで書いてみたいと思います。

月明りだけが頼りだった、23年前の阪神淡路大震災の夜

23年前、1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が起こりました。死者約6400人、負傷者約43000人という未曽有の大災害です。

神戸には地震がないから安全―そんな安全神話を覆された、直下型の地震でした。神戸市内の震度7のエリアに住んでいた私の家は全壊。電気・水・ガスすべてのライフラインが遮断。携帯電話もスマートフォンもなかった時代だったので、乾電池で動くラジオと公衆電話だけが情報源でした。

親戚に連絡をとるために夜の公衆電話に並んだ母曰く「月明りだけが、街を照らしていた」そうです。

大人に守られて過ごした「被災者としての日々」

物心ついていたとはいえ、まだまだ子どもだった私は、祖父の家に避難しました。家の片づけも、修理の段取りもすべて、両親や親戚の人たちがやってくれていました。

震災からひと月たった2月末に元の家に戻り、水くみを手伝ったり、代替えバス(阪神電車が5月ごろまで不通だったので移動手段はバスでした)でお風呂屋さんまで行ったりしていました。

しかしその情報も、もろもろの段取りも、みんな親に頼り切っていたんです。被災者とはいえ、私自身は大人に守ってもらっていたのでした。

今、子を守る立場になって

変わって今年6月の地震。私は35歳になり、夫や子どももいて、仕事もしています。

23年前は現役だった両親もすでに年金生活。地震後の家の片付けも、もっと大きな被害を受けたときの対処も今はすべて私にかかっています。23年前とは違い、私が子どもを守る立場になっていました。

揺れが襲ってきたときは保育園に到着したばかりで、ちょうど私のそばに子どもがいました。だからすぐに帰宅できましたし、ぐちゃぐちゃに散らかった家の片付けにもすぐに取りかかれました。

しかしすでに出勤したお母さん、お父さん方もいて。

大阪の中心部、梅田から約6キロの道のりを歩いて帰ってきたお母さんもおられました。

その中で役に立ったのは、保育園のお母さん同士で作ったグループLINE。

保育園が休園になるという情報、すでに保育園にいる子どもたちの様子、保育園の子どもたちの避難場所などを逐一、グループLINE通じて情報交換できました。

防災頭巾をかぶった子どもたちが保育園の先生と一緒に近くの避難場所にいる写真がLINEに流れたとき、歩きながら引き返すお母さんにどれほど安心感を与えたか。また、数々のSNSで多くの励ましの言葉に元気をもらえたのも今回の震災でした。

失ったもの 得たもの

23年前の阪神淡路大震災は、「ボランティア元年」ともいわれます。たくさんの大切なものを失いましたが、ボランティアの方々を通じて多くの温かい心がうまれたのもその時です。

「月明りの下の公衆電話にあったのは、山積みにされた10円玉だった」と、後に母が教えてくれました。

寒空の下、着の身着のままで、もちろん飲まず食わずでつながらない電話をかけ続けているというのに、「10円玉が足りなかった人のために」と、一人、また一人、と10円玉を置いていったそうなんです。もちろん、火事場泥棒もあったそうなので、良いことばかりではありませんでしたが。

震災での悲しみを繰り返さないために

神戸の悲しみを繰り返さないよう、地震でも倒れない工夫をされた家具、耐震の家などの研究が進みました。おかげさまで、我が家の食器も耐震ロック機能がついていたので、食器の全滅を免れました。また、SNSを通じての安否確認機能が充実しているおかげで、無駄な連絡をせずにすみました。

非常食もしかり、ボランティアや消防団もしかり、以前熊本で起きた地震をきっかけに、地域のつながりの大切さも見直されています。

大きな悲しみを得た分、それを乗り越える力が、まだ私たちにはあるんだと思います。

これからも多くの災害が私たちを襲うと思います。

けれど、私たちには互いに助け合って立ち上がる力がある、それが二度の震災経験から感じたことです。

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