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大阪・京橋駅空襲慰霊祭〜終戦の日前日の悲劇、ライターが見てきた慰霊碑〜

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終戦前日の悲劇

つい先日、YouTubeの動画で偶然知って驚いたのは、大阪の京橋駅で、終戦の日の前日に空襲があったということです。

そしてその動画では、毎年8月14日の午前11時から慰霊塔の前で、被災者慰霊祭を行っていることを伝えていました。

私にとって、京橋の駅は昔から馴染み深く、頻繁に利用してきましたが、空襲があったことも、慰霊塔の存在も知りませんでした。そんな申し訳なさと、犠牲者を悼む気持ちに押され、初めて参列してきました。

1945年8月14日午後1時過ぎの災禍

まずは、空襲の概要をネット記事からまとめてみました。

1945年8月14日にアメリカ軍のB29約150機が、8度目の大阪への空襲をおこないます。標的は、大阪城周辺の大阪陸軍造兵廠で、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下します。このとき国鉄京橋駅(現JR京橋駅)で夥しい犠牲が発生したことから、「京橋駅空襲」や「京橋空襲」と呼ばれるようになりました。

この空襲で造兵廠は壊滅します。また大阪城内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、そのほかにも石垣の一部が崩落するなどの被害を出しました。

そして造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺に1トン爆弾4発が落下したのです。

京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところでした。

居合わせた多くの乗客が、城東線の高架の影になる地上の片町線ホームに避難しました。

そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けたのです。犠牲者は、身元の判明している人が210名以上、身元不明の犠牲者が500~600名以上とされていますが、正確な犠牲者数は不明です。

そして、1955年からは毎年8月14日に、国鉄(現JR)、妙見閣寺、遺族の方々、近隣自治体などの世話人会により、京橋駅南口で慰霊祭が行われるようになったそうです。

慰霊祭の様子

慰霊塔は、京橋駅南口の高架下、寝屋川に面した道沿いにあります。

その前で妙見閣寺の僧侶による法要が営まれました。参列者は約300名で、焼香で手を合わせ、犠牲者に祈りをささげていました。私が思っていたよりも多くの人が参列しており、たくさんのマスコミ関係者も集まっていたので、少し驚きました。

現地はとても狭いのですが、この場所で大勢の人が折り重なるように亡くなった、ということがリアルに感じられ、胸が詰まる思いがしました。

 参列の小学生たち

近くの小学校の生徒も、作文を発表するために数名参列していました。戦後73年経ち戦争の恐ろしさも薄れているのではないだろうか、と感じていましたが、

「大阪のまちに大きな爆弾がいくつも降ってきたなんて想像もできません。私の幸せは食べること、寝ること、遊ぶこと、笑うことです。戦争はこんな毎日を奪ってしまいます。幸せのために戦争はしてはいけないと強く思います」

と、作文を読み上げる小学生の言葉に、戦争の悲惨さが、しっかりと伝わっていることを知ることが出来ました。

当時の学徒動員少女の体験談

ある女性(当時、学徒動員で京橋駅で働いていた方)の体験記からの抜粋です。

『空襲が止んでしばらくすると、アメリカ軍機が再び現れて、白い紙を京橋駅の上空からバラまきました。それは短冊のような紙に毛筆で「空襲は今日で終わりです」と書かれたものでした。手に取って読んでいると、大人の男の人に「そんなものを持っていてはいけない」と、取り上げられてしまいました。

そして次の日に、ラジオで玉音放送が流れて戦争は終わりになりました。アメリカ軍は、戦争が終わることを知っていながら爆弾を落とし、「空襲は今日で終わり」というビラまでまいて行ったということです。いったい何のための空襲だったのか、なぜ大勢の人々が命を落とさねばならなかったのか、今でもわかりません。戦争とは、本当におかしいものだと思います。』

 慰霊祭に参列して感じた事

戦争体験をされた方の多くは、73年という歳月の中でお亡くなりになり、戦争を語る機会も少なく風化しつつあります。

そして、平和意識の希薄さから、平和ボケの時代と言われる現代。

月並みな言葉になってしまいますが、現在の平和は、戦争時の多くの悲しみの上に成り立っているものであります。

私たちはこれからも、戦争の悲惨さを語り継ぎ、平和の尊さを心に刻まなければならない、と強く感じました。

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