この記事は、大阪ものかき隊の隊員が仲間である隊員にインタビューを行い、独自目線で深掘りをする「連載 メンバーズインタビュー」の第1弾として書かれたものです。今回は、大阪ものかき隊の隊長である本田もみじの経歴、考え方、今後について深掘りをしてきました。
深掘りした人:桐嶋つづる
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「仏教は世界一のコンテンツマーケティングの成功例!」
仏教が?
マーケティング?
異次元の2つの言葉を結び合わせ喜々として語るその人が、今回の主役「パラキャリライター本田もみじ」である。
Webライター、マーケッターそして講師という3つの顔を持ちながら、ライターの学びの場「大阪ものかき隊」を運営する隊長としての一面も合わせ持つ。彼女はどのように現在のパラレルキャリア道に行きついたのか、なぜブッダを語るのか。本田もみじの歩んだ道と道標となったもの、その不思議な魅力の全容に迫る。
アパレルと保険会社ですべてを学んだ
今では「パラキャリライター」として個人の魅力を生かして躍進する本田もみじだが、意外にも初めての社会人経験は、大手アパレル会社のいち社員として現場に立つことだった。1998年にフリース素材のアウターを1000円代で売り出し、一躍日本にフリースブームを巻き起こしたあの会社である。
時はその会社の勢いが増していた頃、レジもまだ手打ちの時代である。中でも冬用のハイテク下着新発売の時は本当に苦労の連続だった。
「『分厚い綿の下着をちょうだい!』というお客様で現場はごった返しているのに、経営層は『冬でも薄くて温かいハイテク下着を売れ!』というのです。まだまだお客様がその良さを理解できない時代のため、現場は大混乱。いかにしてハイテク下着を売るかを必死に考える毎日でした」
その会社には「顧客を創造する経営」という理念があった。今では冬の生活に欠かせない冬用のハイテク下着は、「冬は分厚い下着に限る!」というお客様の概念を180度変え、新しい概念をお客様に植え付けたのである。本田もみじのビジネス哲学の根幹となるものはここで築かれていった。
そして2社目は保険会社に勤務。中途採用が即戦力として採用される年俸制の特殊な部署で鍛えられ、「営業力」を身につけた。
本田もみじは、この頃までに「企画・運営・営業力」すべてを学んだ。
いよいよここからパラキャリ道がスタート!・・・かと思いきや、筆者の予想を遥かに超える昔からすでにその道は始まっていた。
少女の心を支えたもの、それは「言葉」だった
本田もみじの1つ目の顔「Webライター」。その原点となる「ものを書くこと」について彼女はこう語った。
「私は国語社会だけは満点。読む本は年間200冊。読書感想文コンクールでは、課題図書ではなく自分の感動した本を題材に『面白い作文』を書きあげていたような小学生でした。ものを書くことは好きだったので、社会人になってもずっと書いていましたね」
彼女は、自身がディスカリキュア(算数障害)であることに大人になってから気付いたと告白している。ディスカリキュアとは「計算ができない」という学習障害(LD)の一種である。
今やマーケッターとして華々しく活躍する彼女が、学生時代は算数が全くできていなかったというから驚きである。筆者だったら「どうしてできないのか」と、落ち込む一方だっただろう。
「本とものを書くこと」そこに共通して存在していた「言葉の力」。それが彼女に1つ目の「ライティング」という道標を与えた。言葉の力が、どれだけもみじ少女の自己肯定感の芽を育てたかは想像に難くない。
マーケティング思考は「冒険」で進化
また、もみじ少女は放任主義だった両親の元で自立心を発揮し、自転車で校区を飛び出して冒険をしては、その思いを日記にしたためていた。特に遺跡や歴史に関する本を読んでは勝手に感想文を書き、どうして文明が現れては消えるのか、なぜ交易が生まれるのかを考えては文章にしていく、変わった趣味を持つ小学生だった。
「自分の中に独自の世界ができ、とても観察眼が広がったと思います。そんな所が今の私のマーケティング思考につながっているのかもしれません。」
彼女の2つ目の顔である「マーケッター」とは、「売上を作り利益を上げる仕事」である。「マーケッター」には数学力が必要だと思いがちだが、本当に必要なのは「結果を見て分析し、考える力」である。そこに欠かせないのが「観察眼」だ。
本田もみじは、小学生の頃すでに本で知識を得て、冒険で観察・体験し、もの書きで分析・表現を繰り返していた。つまりこの頃すでに「ライター」と「マーケッター」という2つのパラキャリ道を歩み始めていたのである。
三つ子の魂百まで。本田もみじは100歳になっても確実にパラキャリライター本田もみじとして生きている。そう思わずにはいられない。
本格的パラレル時代の夜明け
その後、彼女は「当時、仏教の東大ともいわれていた」京都の龍谷大学に入学、冒険少女時代から憧れていた仏教美術を学ぶ。
大学卒業後、前述のアパレルや保険会社の経験を経て、今は大阪のベンチャー企業にインハウスライターとして勤務し、毎日言葉に向き合っている。
「『ものを書く』ということが少女時代の私を支えてくれたように、私が書くことで誰かを支えることができるかもしれない、そろそろ私も1人のもの書きとして世に貢献すべき時がきたのではないかという思いが募り、ライターとして勤務しないかという誘いに乗って入社しました」
また入社と同時に、フリーライター本田もみじとしてもチャレンジする決意をする。「人が自由に働くために会社を作った」という会社代表の「自由の見本になったらええやん」の一言に後押しされた。
しかし「正社員×フリーランス」として活動を始めるも、徐々に疑問を抱くようになる。
「何をすれば単価が上がるのか?」
「自分の記事は何に使われているのか?」
「文章力より、マーケットにフィットさせることに注力した方が喜ばれるのではないか?」
単なる書き手から、ビジネスの現場でどう言葉を役立てるかを考えていった先で、本格的にマーケティングという概念と出会い、Webライター兼マーケッターとしての活動が始まる。本田もみじの本格的パラレル時代の夜明けである。
ブッダは「世界一のコンテンツを生み出した人」
マーケティングの話に及んだ時、彼女は突拍子もないことを口にした。
「ブッダは『世界一すばらしいコンテンツを生み出した人』なんですよ!」
「ブッダ」と「コンテンツ」?
そんな異次元の言葉を合体させては驚かせる、さすが言葉を扱うプロだ。
「私が仏教美術を好きな理由は、仏教は『世界一成功したコンテンツマーケティング事例』だと思うからです。
ブッダというただ1人の人が考えた実態のない思想が、絵や経典というコンテンツになって世界中に波及した。そして2500年たった今でも、本質がずれずにファンが増え続けているという、これはものすごいマーケティングですよね」
そして、こう続けた。
「Webライティングとマーケティング、どちらも私には必然でした。今こうやって多軸で活動させてもらえていることも、何か不思議な『縁』を感じますよね。」
ブッダは、本田もみじがマーケティングの仕事を始めるずっと前から、彼女の心を揺さぶり、2つ目の道標である「マーケティング」への気付きを与えていたのかもしれない。
喜々として語るそのキラキラした目は、まさに自転車に乗って冒険に向かうもみじ少女そのものだった。
言葉とブッダに導かれ、たどり着いた「多軸の道」
インタビュー中、彼女は時折「キュッ」と幼さの残るはにかんだ笑顔を見せる。
一見した時の「文を書ける完璧な女性」の顔と、「はにかむ冒険好き少女」の顔。本田もみじはパラレルな魅力をまとっていた。
彼女が隊長を務めるライター集団「大阪ものかき隊」のメンバーたちに聞くと、皆がその「不思議な魅力」にすっかり引き込まれてしまうという。
約2500年前、ブッダもこんな風に人々を魅了し、多くの人を弟子に迎えてはインド中を説法行脚していたのかもしれない。
冒険好き少女は、言葉とブッダに導かれ、そしていつしかブッダを彷彿させる大人になっていた。
本田もみじがクリエイトする言葉の数々は、自身が作り出すマーケティングコンテンツに乗り、Webの世界をどこまでも満たし、はるか向こうにいる人々の心を癒し続けるだろう。
言葉とブッダに導かれ、「ライティングとマーケティング」という2つの道標によってたどり着いた「多軸の道」は、ちょっと不思議でパラレルなその魅力とともにこれからも続く。