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「若気の至り」プロセスと武装解除 やってはいけないことをやり尽くした若い日々へのレクイエム

「若さ」。

それは理論武装とプライドでがんじがらめになり、攻めの行動も、守りの決断もできず、とにかくカラ回って、その結果を社会のせいにしたり自分のせいにしたり忙しくて、挙句の果てに大人から見たら顛末が容易に想像できること…一時の感情でバイトをバックレたり、やったこともないギャンブルに所持金全額つぎ込んだり、ゆきずりのセックスしたり…と、しょーもない武勇伝もどきを量産するその短絡さと、

「ハチャメチャしてる自分」に酔いながらも、やっぱりやってはいけないことのプロセスにはセオリー通りの痛い代償があるわけで、それを引き受けたったのは自分の覚悟よ!みたいな虚勢張って下手な乗り越え方して、単に自分には見えていなかっただけの、ほんのちっぽけな真理に気付くと、さも自分が大発見したかのように真理に気付くまでのストーリーを事実以上の武勇伝として語る。までがセットの、誰しもが通るハードな時期。

 

上記の時期に量産する、無駄多き武勇伝。ひとことでまとめるいい言葉がありましてね、「若気の至り」っていうんですが、皆さん知ってました?昔の人はうまくまとめますね。

 

「若気の至りストーリーズ」。テンプレはありつつも、人によってディテールは異なって当然。出てくるエピソードの質やジャンルも、違ってきます。

 

そして、どうしてそこに至ったか、プロセスを探っていくと、個人的な行動パターンが見えてくる。

つまり「結果を社会のせいにしたり自分のせいにしたり」っていう部分にパーソナルな状況が絡み、ストーリーの大きな分岐点になるわけです。

 

 

若かりし頃の本田は、「人間失格」とか「ライムギ畑でつかまえて」とかをせっせと読んでは、太宰とサリンジャーに「てめーらだけが辛いんじゃねー!社会のせいにするんじゃねー!」と毒づき、金子光春や中島敦に傾倒し、「どっちのタイプも結局同じじゃね?」という大事な部分には気付かず、太宰系のあの繊細さを全く理解できないふりだけが上手な、粋がった文学少女。

それから、「20代で読んだ方がいい文学100選」とかでレコメンドされる現代小説の主人公の、思春期っぽいソーダ水のような「私なんて…」的な奥ゆかしさも、甘ったるいお菓子とおなじくらい嫌いでした。

ではヤングな私が、社会のせいでも自己肯定感の低さでもなく、「何のせい」で至りに至りまくっていたかいうと、「迷い」です。

かつての私の失態の99%は、「迷い」に依存することによって引き起こされていました。

 

むかしむかし、私は「よく考える」という行為を、みっともなく感じ、バカくさいと思っていました。

即断即決命!
熟考とかダサいし、迷ったら負け!
失敗したら、それは「迷った」せい!

敵の姿がちらりとでも見えたら、戦術を練らずに突進します。

そう、その頃の座右の銘は、「迷ったらやる」。

 

 

今なら分かります。

迷ったらダサいからと、たいして心に響かない「和風ゆずパスタ」をパパっと頼んだ私より、「えー、どうしよう…あ、バジルと海老…いいな…でもこってりチーズもいいな…マッシュルーム入ってるのないかな…」と広い視野で選択肢を見極め、自分の空腹度と舌の気分、素材、カロリー、ありとあらゆる要素を検討し尽くして5分かけてオーダーする彼女の方が、自分で選んだ結果に対し真摯に向き合っていて、そして満足した食事ができる。

 

しかし若い頃の私は、結果の満足度より、「決めるときのスピード感」が、生のクオリティを高めると本気で信じていました。

当然、失敗ばかりです。
あらゆる局面で、思った以上にヒット率の悪い「結果」を手にし、バッタリ倒れます。そりゃそうだ、しっかり考えていないんだから。

生傷は絶えません。
そして、反省や後悔をする間もなく、次の戦いに突進。
常にその場しのぎの決断を続け、息継ぎのタイミングすら見失っていました。

 

 

そんなある日、私は新しい人生観に出会います。

飲み仲間のオッチャンが、グデングデンに酔いながら私にこういい放ちました。

「おい、オマエなあ、迷ったらやるなよ…」

たぶん私は、酔いながら「あんなことがあった、こんな失敗をした、でも私は大丈夫ー!」と、恥ずかしげもない若気の至りエピソードを話していたんだと思います。何杯目かも覚えていない日本酒のコップ片手に。

しかし、

迷ったらやる!
迷ったからこそ、迷いを払拭するためにもすぐにやる!

というのが生きる信条、周囲を見渡したり比較検討したりなんて腐ったヤツのやることだ!と思っていた私は、その言葉を「臆病オヤジの戯言」と受取り、まったく真剣に受け止めずに終わります。

ほんの少しの、のどを小骨が通過したような違和感…「もしかしてよく考えた方がいい話なのではないか」という違和感の記憶だけを残して。

 

その言葉を思い出し、納得できるようになったのは、いわれてから10年くらい経過した頃でしょうか。

「迷ったらやるな」は、「迷いがないことだけを選べ」、迷うようなことに人生を費やすのは、ムダだ、という意味なんだ…

ある程度の人生経験を重ねた私は、ときに「迷い」は羅針盤ともなり、覚悟の芽にもなると、いつの間にか肌で理解できるようになっていました。

 

「失敗したのは迷ったからだ」

20歳の私と、今の私の結論は、同じです。

しかし、

「買い物に失敗したのは迷ったからだ」の本質は、決めるときのスピードにはありませんでした。

「迷うようなものを買うから、失敗する」のです。

そして、

 

「人や社会がなんといおうと、自分に迷いがなかったら、それでいい」というシンプルな答えにたどりつきました。

 

「愛しているけど、周囲に反対される。私は本当にあの人を選んでいいの!?」と迷うくらいなら、その人についていくのは、やめたほうがいいんです。

そうではなく、「誰が何といおうと、羽交い絞めにされても、あの人を選ぶ」といい切れるのなら、人生の納得度は高まるに決まっています。

迷ったけどこっちにしてよかった〜!
なんて、ラッキーだから記憶に残るだけで、実はたいした成功率ではないんだから。

 

人生には、ときに、条件とか、世間体とか、自分の実力とか、そんな枝葉を気にする余裕もないまま、迷いという概念から解き放たれて「何か」を選ぶ瞬間があります。それは、自分の理解や想像の範疇を超えた大きなうねりに飲み込まれる抗えない宿命でもあり、若さゆえの武装を解除するターニングポイントにもなり得ます。

若気の至り。

いい歳こいて、ハタチのときのような武勇伝は、もうつくれません。

歳を取った人間が「至れ」なくなるのは、分別や体力の問題だけではなく、目には見えない人生の「うねり」の存在をどこかで感じ、その人の「至り」の原因だった何かを、手中からそっとうねりの流れに放ってしまえるからでないか。

そう思うのです。

 

 

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