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京都に10年住んだライターが思うこと。京都は、何をしてても、なーんか京都。

10年住んだ思い出の街「我が青春、京都」

私、本田もみじは、札幌で育ちながらも関西に異常に憧れていました。

とにかく身も心も関西に惹かれ、進学を機に北海道を飛び出して早22年。
右も左も分からぬまま京都に10年住み、現在住む奈良では12年の月日が経とうとしています。

私にとって、京都で学生時代を含む20代を過ごしたことは、人生の大きな財産となっています。

もちろん今でも大好きですし、心には、忘れられない風景がたくさんしまってあります。

汗でぺたぺたする肌を光らせながら鼻歌自転車でバイトに向かう、初夏の川端通り
国籍不明のネオンが重なる西木屋町の路地裏で、ジンライムを舐めながら待つ始発
青紅葉にむせ返りそうになりながらカメラを持ってフラフラ歩く、貸切の哲学の道
視界の端の影を黄昏のせいにして上る、ろうそくが灯り始めた時間の伏見稲荷大社

とにかく京都は、どこを歩いても「京都」。10年も住んでいたのに、いまだ京都駅に着くたび、京阪三条のエスカレーターを上るたび、「京都!」と心がうずうずする。

これはノスタルジーだけの問題じゃない。京都にはなにか面妖な力があるのです。

目次

昔書いた、京都愛をつづった文章を引っ張り出してみる

どうしてこの記事を書こうと思ったかというと、5年前の秋に書いたこんな文章を見つけたから。

本日、昔愛した京都とデート。

ちょうど下鴨神社に用事があった晴天の日。
京都から『最近、奈良とうまくいってるみたいやけど、たまには来たらええんちゃう』と誘われたのです。

土日は奈良と遊ぶのよ!と断ることもできましたが、紅葉見せてやるよという甘い誘惑には勝てず…

久しぶりの京都は、やはりオシャレでムード満点。
どこを見てもロマンチックでかわいくて、女心をこれでもか!とくすぐってくる。

もう、浮気と言われても反論できないくらいキュンキュンしまくった。

出町柳からの糺の森。キラキラ光る高野川。
裏道を抜け、かつて住んだ部屋を見上げる、茶山から元田中のあの道。
何度も歩いた道を懐かしみ。
百万遍から銀閣寺。良く通ったお店や、朝まで飲んだ居酒屋。
空にはカラカラ街路樹が鳴る。

あー、私は10年間も京都を愛していたんだなあ…

いろいろあって京都と別れ、奈良に惹かれて早7年。

でも、あんなに愛した記憶は消えておらず、思い出に浸りながら哲学の道、そして真如堂。
秋の京都の魅力最高潮、岡崎から白川、三条京阪。

思い出コースを歩いて回る、散歩道。

『ええやん、夜まで遊ぼうや』と言われましたが、京都の夜遊びは今の私には刺激が強すぎるので、『ごめんね、奈良が待ってるから』と振り切って帰宅。

ほんとはね、天授庵か青蓮院でライトアップを見ても良かったんだけど。
あまりの京都の人気に嫉妬してヘトヘトになりそうだったから…

我ながら、ふふふ…と笑ってしまいました。私にとっての、京都と奈良の関係性は、5年たった今でも変わっていません。やっぱり私にとっての京都は、永遠の恋人のようです。

空間力プロデュース力の差は「面」と「点」に現れる

と、ここからは、現在は奈良に住む私の真面目な話ですが。

「京都にあって奈良に不足しているものは、空間プロデュース力だ」と思っています。

そのプロデュース力とは、小手先のグッズやイベントなどではなく、『観光に来ている半日の間、ずっと奈良を感じることができる』という空気感のことです。

 

京都は、何をしてても、なーんか京都なんですよね。

普通の住宅街を歩いても、喫茶店でお茶しても、コンビニ入っても、観光以外の用事で訪れても、なーんか京都。

空気が京都。
お寺に行かなくても、京都。

だから、どんな半日を過ごしても『京都に滞在した』気になれる。

しかし、奈良は『奈良っぽい』ものが点でしか繋がっていないように感じます。それぞれの観光地のポテンシャルは決して京都に負けていないのですが、一歩奈良公園や史跡から離れると、そこにはただの生活圏が広がっているだけで…

もちろん、私を含む奈良マニアにとってはその生活自体が魅力です。しかしトータル的に見ると、一般観光客への「面」のアピール力は圧倒的に足りていません。

奈良が京都の真似をする必要は、まったくありません。

ただ、残念ながら、奈良は楽しみ方がピンポイントでしか訴求できていないのです。

『大仏を見た』『法隆寺に行った』『ならまちでカフェに行った』そんな目的を達成してしまった観光客に、もっと『奈良に滞在してるだけで感じられる空気感』を楽しんでもらえたら良いなあ。

と、
かつての恋人とのデートを反芻しながら、考えたのでありました。

京都は、インバウンドには負けない

最近の京都には、たくさんの外国人観光客が訪れています。あまりにも数が増えているため、そこには批判も生まれています。

市バスが混雑し過ぎて、市民はまったく乗れないし、乗らなくなってしまった…
静寂の寺院が団体客であふれている、またマナー違反が多く、信仰の地が乱されている…
にわか舞妓や、着崩しが過ぎる着物姿のゲストが増え、文化破壊が懸念されている…

どうでしょう。
確かに、そのようなシーンはよく見ます。そして、京都という稀有な文化都市の行く末に不安を覚えている人も多いと聞きます。

でも私が思うに、京都の街は、ちょっとやそっとの異文化流入で壊れたりはしません。

しれーっと「よそさんの文化もようけ入ってきとるけど、まあ、いつものことやさかい」なんて言って、根本的な部分は…まるで密教の秘儀のように…開示もせず崩されもせずというスタンスそのものを、「京都」と呼ぶのです。

いいじゃないですか。
私も以前パリに行ったとき、「フランスパンを抱えてシャンゼリゼ通りを歩く」という夢を叶えました。名だたる観光地は、ゲストの憧れを惜しみなく叶えてくれます。京都が世界中のツーリストを満足させているなら、それは素晴らしいことではないでしょうか。

我が青春時代の恋人は、甲斐性と包容力にあふれていますから!

(とは言え、20年前、貸切同然の永観堂で、西洋人の禅僧が目を伏せて黒い廊下を歩いている姿を見て、その美しさに心臓がギュッとなったことを覚えています。そのような静謐の永観堂は、もう過去のものになったのかと思うと、ややノスタルジーを感じます)

さて。京都のカフェで書いたこの記事を、あと20年後に読み返したとき。
私は何を感じるのでしょうか。

そして、京都は何を守って、どこを変化させているのでしょうか。

楽しみです。

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